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    日本の生活文化における音環境の分節化の構造に関する基礎的研究

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Koji Nagahata


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書誌情報
著者:日本の生活文化における音環境の分節化の構造に関する基礎的研究
掲載誌:九州芸術工科大学博士論文 甲14号


概要
第1章 はじめに

 人間の生活環境には、常に様々な音が存在している。ここで、人間の生活環境に存在する音の総体を「音環境」と呼ぶことにすると、人間は常に音環境に囲まれて生活をしていると言うことができよう。
 人間が、自分のおかれている音環境を把握しようとする時、そこにある音全てを意味ある音として知覚しているわけではない。自分のおかれている音環境の中から、ある音を、肯定的にせよ否定的にせよ意味をもった音として取り出して知覚することで音環境を把握しているのである。ところで、ある音環境の中から意味をもった音を取り出すということは、その音環境にある意味を与えること、すなわち、音環境を意味づけることである。このことより、人間は自分のおかれている音環境を意味づけることで知覚していると言うことが可能である。したがって、人間によって意味づけられて知覚されている音環境は、自分がおかれている音環境そのものとは分けて考える必要がある。そこで、人間が、意味づけることによって知覚した音環境のことを本論文では「音風景」と呼ぶことにする。
 人間は音環境を意味づけることによって音風景として知覚しているということより、音環境について研究する際には、音環境をどのように意味づけて知覚しているのかという、音風景についての研究をもする必要があると考える。なぜなら、音環境には物理的状況としての「音環境」という側面と、人間によって意味づけられた音環境としての「音風景」という側面があるので、音環境を物理的状況として扱い、その物理的側面について研究するだけでは片手落ちだからである。このような視点より、本論文では音環境の持つ「音風景」という側面に着目し、人間が音環境を音風景として知覚する際の、意味づけを規定する構造を明らかにすることを目的とした研究を展開した。
 ところで、「意味づけの構造」に関しては、記号学の分野で古くから研究されてきている。そこで、本論文では記号学における知見を援用し、特に、「分節」という概念を導入する。「分節」とは、記号の持つ、対象界に意味を生成するために区分を入れる働きのことであり、「分節」によってこそ、対象界(本論文では「音環境」)は意味が与えられるのである。ここで、「分節」という概念を用いて本論文の目的を言い替えると、「人間が音環境を音風景として知覚する際の分節化の構造を明らかにすること」、すなわち、「音環境の分節化の構造を明らかにすること」である。ここで、意味は分節によってこそ生成されるということを考えれば、音環境の分節化を研究対象とする本研究は、音環境の意味についての研究にあたって、最も基本的な問題をとりあげていると言える。
 音環境の分節化の構造は、分節化する主体のおかれている総合的状況(コンテクスト)に依存していると考えられる。そのため、分節化の構造を明らかにしていくためには、その構造を規定するであろう総合的状況を、具体的に設定して検討を行なう必要がある。そこで本論文では、音環境の分節化の構造をまず「視覚障害者が音から場所を特定する過程」「俳句に詠み込まれた音環境における詠まれた音とその音が聞かれた季節、空間との関係性」「ある集落全体に聞こえるように鳴らされる音が騒音と見なされない事例における歴史的及び社会的背景」という3つの異なった具体的な状況との関係において明らかにした。その上で、これら3つの状況における音環境の分節化の構造をまとめることで、音環境の分節化の構造が持つ特徴を明らかにした。

第2章 視覚障害者が音から場所を特定する過程に見られる音環境の分節化の構造について

 音環境の分節化の諸相の一つに、環境認知の文脈における分節化というものが挙げられる。このような音による環境認知は、聴覚情報への依存度が高い視覚障害者によって顕著に行なわれている。第2章では、視覚障害者が都市内行動時に用いる聴覚情報のうち、特に、ある場所で聞こえてくる音からそこがどこであるのかについて同定しようとする際、どのような音をどのように用いているのかについて系統的に明らかにすることを通して、環境認知の文脈における音環境の分節化の構造について論じた。
 具体的な方法は、次のとおりである。現在歩行訓練中の中途視覚障害者に、彼らが歩行訓練のプログラムの中で行ったことのある場所において録音してきた音を聞かせた。そして、それらがどこで録音してきた音なのかを特定させ、なぜその場所と特定したのかについて自由に回答させた。この調査で得られた回答を、どこでどのような音が指摘されたのかについて整理し、音と場所の関係性を構造的に明らかにするために、クラスター分析を行なった。
 その結果、視覚障害者が音から場所を特定する際の分節化の構造について、次のようなことが明らかとなった。視覚障害者が音から場所を特定する際に用いる音は多岐に渡っている。実際に、それらの音を用いる過程としては、ある音の存在から大雑把に場所の特徴を特定した後に、他の音の存在から詳しく場所を特定していくという「階層的」な過程と、ある場所で聞かれる特徴的な音全てを総合的に判断することで場所を特定するという「並列的」な過程の2種類の過程があり、人によってそのどちらかを採用している。「階層的」な過程を採用するにせよ、「並列的」な過程を採用するにせよ、音から場所を特定する際に具体的に用いている音は、人によって異なっている。

第3章 俳句に詠み込まれた音環境に見られる音環境の分節化の構造について

 文学作品や芸術作品に見られる音環境の分節化の構造は、その作品が作られた地域の「風土」などの影響を大きく受けた、その地域独自のものであろう。そして、このような「風土」などの影響を受けた地域独自の音環境の分節化の構造は、「民族」のような特定の集団内において個人差を越えて同一の構造を示すという点において、前章で示したような個人によって異なる音環境の分節化の構造とは明確に異なったものであると考えられる。第3章では、文学作品の中でも特に俳句を対象とし、俳句に詠み込まれた音環境に見られる音環境の分節化の構造について検討した。
 具体的には、江戸時代から現代までに詠まれた、音についての記述のある俳句3,810句を、詠まれた音、季節、空間、その句が詠まれた時代について分類し、数量化理論III類分析を適用することで、音、季節、空間、時代の関係性を構造的に明らかにした。さらに、音、季節、空間の組み合わさり方が、時代によってどのように変化したのかを基本的統計量により解析することで、俳句に詠み込まれた音環境の分節化の構造の時代変遷の内容を定量的に明らかにした。
 その結果、俳句に詠み込まれた音環境の分節化の構造の特徴として、次のことがわかった。俳句に詠み込まれた音環境は、音と空間の特性との関係によって、自然空間の音風景、居住空間の音風景、水辺の音風景、社寺仏閣の音風景の4つに分類することができ、このような音環境の分節化の構造そのものは、時代の流れに関わらず一定であった。その中で、昔は自然空間の音風景がよく詠まれていたのに対して、現代ではそれらは減少し、人の生活行為にまつわる音風景が取り上げられることが増加している。また、時代と共に、俳句の中で詠み込まれるような音環境のパターンは減少している。そして、ある季節のある空間の情景や、日常生活のある一場面を象徴するような音は、俳句に詠み込まれることが減少し、逆に、そのような象徴作用を持たない音が、多く詠み込まれるようになってきている。このことより、日本の音文化には音を季節や空間の象徴として、あるいは、日常生活の一場面の象徴として敏感に読み取り、そこに情緒を感じるという伝統があったが、そのような文化は失われつつあると考える。

第4章 島中に響き渡る音に対する島民の意識に見られる音の分節化の構造について

 騒音とは、その音の受け手によって騒音として分節化された音のことである。従って、音環境の分節化の諸相の一つに、どのような音が騒音として分節化されるかという問題が存在する。従来までの音環境の研究のほとんどがいわゆる「騒音」を取り扱ってきたことを考えれば、この問題は、音環境の分節化の諸相の中で特に注目されるべき問題であると言えよう。第4章では、山口県のある離島において、集落全体に響き渡るように鳴らされる音が集落の住民には騒音として分節化されていないという事例の分析を通して、どのような音が騒音として分節化されるのかという問題について論じた。
 具体的な調査は次のとおりである。集落全体に響き渡るように鳴らされる音が鳴らされるようになった背景、及び、それらの音の時代変遷を明らかにするために、島の古老にインタビューを行なった。また、それらの音が、現在島民にどのように受け止められているのかを明らかにするために、島の全成人を対象として、これらの音に対する意識調査を行なった。
 その結果、「ある音を共有する」ということを「人によって価値が違ったとしても、その音に価値があることは誰でも共通に認めている状況」を意味することにすると、集落全体で共有されている音は、騒音とは分節化されないことが明らかとなった。逆に、集落全体で共有化されていない音は、騒音として分節化され得ることが明らかとなった。さらに、ある音に対してその音を共有する人たちを一つの共同体と見なすことが可能であり、その共同体の中ではその音については騒音とは認識されないことを明らかにした。また、この「共同体」という考え方は、都市の騒音問題に対しても適用できることを示した。

第5章 結論

 本論文では、音環境の意味づけを規定する構造を明らかにすることを目的として、日本の生活文化における音環境の分節化の構造について、「視覚障害者が音から場所を特定する過程」、「俳句に詠み込まれた音環境における詠まれた音とその音が聞かれた季節、空間との関係性」、「ある集落全体に聞こえるように鳴らされる音が騒音と見なされない事例における歴史的及び社会的背景」という3つの特徴的な状況に着目した検討を行なった。それぞれの章で明らかになったことは、前述のとおりである。
 ところで、第2章で示した、「視覚障害者が音から場所を特定する過程」に見られる音環境の分節化の構造は、知覚する主体の過去の経験のような個人的な文脈が、音環境の分節化の構造を規定する総合的状況の中でも特に大きな影響力を持っていると考えられる。これに対して、第3章で示した、「俳句に詠み込まれた音環境における詠まれた音とその音が聞かれた季節、空間との関係性」に見られる音環境の分節化の構造では、社会的な文脈が、総合的な状況の中でも特に大きな影響力を持っていると考えられる。
 これらより、音環境の分節化の構造の持つ特徴として、次のことが言える。人間が自分のおかれている空間における音環境を分節化する時に、どのような音をその空間を特徴づける音として分節するか、そして、分節した音にどのような意味を付与するかについての構造を規定するのは、知覚する主体のおかれている総合的状況である。そして、知覚する主体である人間のおかれている状況は、場所を特定するための分節化なのか、俳句を作り上げるための分節化なのかというような、分節化の目的により当然異なるが、社会的文脈が大きな影響力を持つような状況と、個人的な文脈が大きな影響力を持つような状況の両者が存在している。
 さて、都市においては、ある人はある場所で聞こえてくる音からそこがどこであるかを特定しようという状況にあり、別のある人は俳句の句材を探しているという状況にあるというように、同じ空間に居会わせている人全てが、違った状況で音環境を分節化している可能性がある。このような状況においては、ある音が、ある人にとっては重要な役割を担った音として聞かれているが、他のある人にとっては邪魔な音として聞かれているということも起こり得る。したがって、音環境に何らかの変更を加える際、ある状況で音環境を分節化している人々のことのみを考えて実施すると、他の分節化をしている人にとっては、深刻な問題となり得る可能性がある。
 そのような観点から第4章で得られた結論を見る。第4章の結論は、ある空間で鳴らされる音が騒音として分節化されないためには、その音がその場に居会わせる人達全てに共有される必要があり、共有されることで始めて、その音がそこで鳴らされる事について合意形成が為されるということを意味している。ここでは、対象となる音がそれぞれの人に異なる意味づけをされていたとしても問題ではなく、それぞれの人が何らかの(肯定的な)意味づけをしていること自体が重要なのである。したがって、音環境に何らかの変更を加える際には、その場に居会わせ得る人達全てに、いかにしてその変更を共有化させるかということが、重要な課題であると言える。
 今後、音環境の意味の研究を、よりよい音環境を作り上げていくための手がかりとして用いていくためには、さらに様々な状況における音環境の分節化の構造を明らかにして良く必要があろう。そのような研究は、それぞれの状況におかれた人々にとっての、よりよい音環境を作り上げていくための指針を得ることに繋がる。それと同時に、異なった状況下で音環境の分節化をしている人達の間で、いかにして音の共有化を計っていくかについての方法論の構築を検討する必要があろう。




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