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  静音な自動車への音付けをめぐって
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Koji Nagahata


archieves
 ハイブリッド車や電気自動車の静かな走行音が歩行者に危険だとして,国はエンジン類似音を出す装置の搭載を義務付けようとしている.音響学の専門家として,騒音問題と視覚障害者のバリアフリーの両者を研究してきた立場から,静穏な車にわざわざ音を出させる問題点を指摘したい.

 視覚障害者にとって,エンジン音は車の存在を知る重要な情報だ.ハイブリッド車に類似音を付加することで視覚障害者が安全に歩行できる状況をつくり出そうという発想は,一見,正しそうに見える.しかし,自動車の静音性が事故の主原因なのだろうか.
 交通事故は歩行者と自動車が接する所で発生する.歩行者と自動車が歩道やガードレールで適切に分離されれば,事故はほとんど起きない.歩車分離の不徹底が事故の主原因なのだ.歩車分離を進めるという本質的な安全対策に手を付けず,音で車の存在を知らせ,歩行者に車から逃げろというのは,車が中心で人間本位のやり方ではない.
 歩道が設置できない狭い道については,そんな所まで車が自由に往来できることにそもそも無理がある.どうしても侵入するのであれば,車がスピードを落とし,歩行者に気を配るべきだ.
 さらに車の音が聞こえないのは,必ずしもその音が小さすぎるわけではないと指摘したい.視覚障害者を対象としたハイブリッド車や電気自動車の体験会では,単体で走行した車の存在を,ほとんどの参加者が確認できた.静かな環境では走行音は聞こえる.聞こえないのは,大型車のエンジン音や路上駐車のアイドリング,工事の音や該当の宣伝放送など周囲のより大きな音がハイブリッド車の走行音をマスクするからだ.
 視覚障害者は,ハイブリッド車の登場以前から周囲の騒音で自動車の走行音が聞き取りにくくなる危険性を指摘してきた.これは,ハイブリッド車に一般エンジン車と同程度の類似音を付加しても問題は部分的にしか解決しないことを意味する.音を出すことで安全性を高めようとするならば,周囲の騒音に負けない,より大きな音を付加しなければならない.
 歩行者が車の接近を認識でえきるようにするには,ハイブリッド車の走行音がかき消されないように周囲の騒音レベルを下げる方法もあり得る.そのために高騒音の自動車の走行を制限することこそが,視覚障害者にも道路沿線住民にも利益となる,より正しい解決策なのではないだろうか.
 耳にはまぶたに相当するものはない.聴覚は常に生きている.心地よい音も嫌な音も耳にはすべて入ってくる.余計な音は出さないに越したことはない.騒音が心疾患を招き,命を縮めるというデータもある.人間にとって静けさはとても大切だ.
 技術が進化し,ハイブリッド車や電気自動車が生まれ,低騒音化が実現した.せっかく手に入れた静けさを失うのは非常にもったいない.自動車の騒音規制を強化してきた騒音政策の歴史にも逆行する.しかも,エンジン類似音を付加しても,安全面の問題は全面解決しないのだから,中身の薄い安全対策にしかならない.

 エンジン類似音の付加が義務付けられると,恒久的な対策になる可能性が大きい.いったん出来た安全制度を異議申し立てで覆すのは大変難しい.だからこそ,静穏なハイブリッド車にエンジン類似音を付加することの是非は極めて慎重に議論する必要がある.自動車の走行音を,鳴らし続けることが許される「聖なる騒音」にしてはならない.

(初出:河北新報2010年7月7日付,掲載時タイトル:HVにエンジン類似音 周囲の騒音排除が先決)




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